人生においては、思いがけない嵐に遭遇することがあります。自分の計画とはまったく違う方向に流され、どこに辿り着くのか分からない。「どうしてこんなことになったのだろうか」と思わされる出来事です。パウロの旅も、まさにそのような旅でした。彼はローマへ向かっていた途中で嵐に遭い、彼の乗った船はついに難破してしまったのです。船は壊れ、海に投げ出される絶望的状況でした。しかしその中にあっても、神の約束がありました。「あなたはローマでも証しをする」とパウロは言われていたのです。嵐がどれほど激しくても、神の言葉は消えません。変わることのない神の言葉が、絶望的な状況を変えていくのです。
夜が明けた時、水夫たちは砂浜のある入江を見つけ、そこに船を乗り上げようとします。錨を切り離し、帆を上げ、必死に陸へ向かいます。船は浅瀬に乗り上げ、ついに壊れ始めます。混乱の中、兵士たちは考えます。囚人が逃げたら自分たちが処罰される。だから囚人を殺してしまおう。その時、一人の人物がそれを止めました。百人隊長ユリウスです。彼はパウロを助けたいと思ったのです。ユリウスは囚人である立場にも関わらず、船の皆を励ましたパウロに対し、いつしか好意を抱くようになったのでしょうか。いずれにしても一人の軍人の小さな決断が、囚人たち、パウロたちを救います。泳げる者は泳ぎ、泳げない者は板につかまり、276人全員が助かりました。一人も命が失われなかった。神がパウロに示し、パウロが人々に語った言葉が現実となったのです。
こうして彼らが辿り着いたのはマルタ島でした。聖書は島の人々が言葉や文化が違う人々であったと伝えます。まさに異邦の地です。しかしその人々は驚くほど親切でした。冷たい雨の中で火を焚き、漂流していたパウロ一行を文字通り暖かく迎え入れたのです。このように、神さまは時に思いがけない人を通して助けてくださるのです。
ところが、また一つの出来事が起こります。パウロが焚き火に柴をくべた時、毒蛇が手に噛みついたのです。島の人々はそれを見て言いました。「この人はきっと殺人者だ。」「海からは逃れたが、正義の女神が生かしておかないのだ。」と。つまり「これは神の裁きだ」と考えたのです。しかしパウロは蛇を火の中に振り落とし、何も起こりませんでした。島の人々は、きっと腫れ上がるだろう、きっと死ぬだろう、と待っていました。しかし何も起こらない。すると今度はこう言い始めます。「この人は神だ。」。評価が一瞬で逆転しました。人間の判断は、本当に不安定なものです。ある時は罪人と言い、ある時は神だと言う。こうして人間の評価は移ろいます。しかしパウロを見る神さまの目は移ろいません。パウロはただ、神の使いとしてここにいるのです。
さらに神の働きは続きます。島の有力者プブリウスの父が病に倒れていました。パウロが祈り、手を置くと、彼は癒されました。すると島中の病人が次々にやって来て、癒されていきました。福音は、ただ情報を伝達するだけなのではありません。人々の苦しみに実際に触れ、共に平安に至る出来事が起こるものです。その結果、島の人々はパウロたちを信頼し、多くの物を与えました。春になって船出する時、必要なものをすべて備えてくれたのです。こうして嵐から始まった物語は、恵みの共同体を建て上げる報告へと変えられたのです。
この一連の出来事を通して、パウロは難破しましたし、蛇にも噛まれました。それでも神の働きは止まらず、むしろそれらを通して新しい出会いが生み出され、新しい救いへ至る新しい道が開かれたのです。私たちの人生も同じです。嵐のような出来事があります。思いがけない場所に漂着することがあります。しかしその時でも、神の導きは終わっていません。神は時に難破した場所で、新しい恵みを用意しておられるのです。嵐の中でこそ、恵みは見えてくる。難破の中でこそ、神の導きが示されることがあるのです。
中村恵太